市民社会とは

この間、市民社会論への再問という問題を考えさせらた。そういう新書版が出て、書評やら講演を聴くやらでいろいろかさなった。でも思うに、ほとんど空気のように、市民社会論が自分の中にあって、それでよしと思ってきたが、実はそうではないらしいのだ。でもその議論も少し首をかしげることが多く、まあこれを機会に市民社会論を考えたい。私としては、市民社会論があったから、なんとかマルクス主義も生き延びることができた、という立場だ。それくらい思い入れが大きい。市民社会論以前のマルクス主義はいわゆるブルジュア社会という規定で打倒・転覆の対象であったが、市民社会論でよりリアリティのある変革論にかわったとみているが。さらに市民社会論は、市民という主体をかかげて、市民運動論であり、市民的自由の獲得の問題であったと思う。したがって、単なる西欧社会へのあこがれという立場とは違う。西欧社会が獲得した普遍的な民主主義を主体的に獲得する運動であり、市民社会は国民国家論の克服も意味している。この間の中東の市民革命もまさに市民社会論で語るべきものだと思うのだがどうだろう。大塚久雄、丸山真男、高島善哉、内田義彦、平田清明、望月清司という一連の流れがあったことは確かで、語彙の問題はともかくいわゆる市民社会論が議論されてきたと思う。それはかなり専門分野もからんでいて一般的な議論ではないが、評価すべき社会科学論とみている。単純な西欧の市民社会がない日本という問題ではないはずだ。市民社会論からグラムシ論やアソシエーション論があったのではないか。それは有効性は終わっていない。

高根図書

 

 

 

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